荒井経展 -失われた時刻をさがして-

潺画廊
東京都世田谷区深沢6-4-12  TEL 03-3703-6255
11:00-18:00 土・日のみ開催 http://sengarou.co.jp

1967年 栃木県宇都宮市生まれ
1990年 筑波大学 芸術専門学群 日本画 卒業
1992年 筑波大学大学院芸術研究科美術専攻日本画 修了
2000年 東京芸術大学大学院美術研究科保存修復日本画修了/サロン・ド・プランタン賞
2004年 東京芸術大学 博士(文化財)取得
現在  東京学芸大学助教授
     
【主な個展】
1994年 個展(ギャラリーインザブルー/宇都宮)
1996年 個展(コバヤシ画廊/銀座)
1997年 個展(ギャラリーインザブルー/宇都宮)
1998年 個展(コバヤシ画廊/銀座)
2000年 個展(アートハウス+ノイエス朝日/前橋)
2003年 個展(BASE Gallery/京橋)
2004年 個展(潺画廊)
2006年 個展 「失われた時刻をさがして」(潺画廊)
     
【主なグループ展】
2000年 「VOCA展2000 現代美術の展望ー新しい平面の作家たち」  
       (上野の森美術館)
        「光州ビエンナーレ日本巡回展 見えない境界ー変貌するアジアの美術」
       (宇都宮美術館)
        「千年の扉展/栃木県美術の20世紀」(栃木県立美術館)        
2001年 佐藤国際文化育英財団・第10回奨学生美術展 (佐藤美術館/新宿)
2002年 豊橋トリエンナーレ (豊橋市美術博物館)
2003年 第2回宇都宮美術の現在展(宇都宮美術館)
2005年 「VOCA展2005現代美術の展望ー新しい平面の作家たち」出品
      (上野の森美術館)
2006年 「損保ジャパン美術財団選抜奨励展」出品(損保ジャパン東郷青児美術館)
       グループ「尖」展出品(京都市立美術館)

勧善懲悪のドラマは好きになれない。最終回にたった一回あるかもしれない逆転のために、声をひそめてひたすら悪役を応援してしまう。

 桃山から江戸、江戸から明治、戦前戦後、今の日本が選ばれるための樹形図。選ばれてきたものよりも、淘汰されてしまったものに想いをめぐらせる。淘汰されてしまったものの中には、「もうひとつの日本像」という妄想をかきたてるものがあるからだ。

 ドラマで悪役を応援しているなんて、友達にはいえなかったけれども、創作をする今の私にインスピレーションを与えてくれるのは、主人公よりも悪役のほうなのである。

・・・タイトルに「日にちと時間」がつけられていますが、描いている時の時刻なんでしょうか。

「作品が完成したな」と思った時の時刻なんです。記憶とか過去とかにとても関心がありますので、今回の作品では特に風景を通して記憶のあり様や、時刻と像の関係を考えているのです。

・・・今回のテーマは「失われた時刻をさがして」ですね。「失われた時刻」という言葉には、二重の意味性が含まれているように思うのです。一つは人間の記憶。もうひとつは文化財保存学を研究されてるお立場から、日本画における現在を再考されているように感じました。

作品を描きながら、画材の研究もしています。私は日本画家ですので、日本画が失ってしまった水墨画とか、淘汰された東洋の文化ということに興味があるんです。中国とか韓国に行きますと、日本画が独自の発展のなかで失ってしまったものを発見できるんですよ。それを見ながら日本画が置き忘れてきた仕事を探っているというか。例えば「普遍的な山水画を描きたい」という気持ちが、頭の片隅に出てきたんです。何世代にも渡って描き続けられてきた「山水画のような画題を回復したい」そういう思いもありますね。

・・・山水ですか。そういえば、近代日本画の作家たちはその世界観に精通していたように思います。絵具を厚く重ねなくても、場の空気の温度や湿度を肌で感じられるように描いていましたよね。でも戦後は、絵具の物質性ばかりが際立ってしまって、ものの本質を捉えているように見えても、何か忘れているような傾向があるような気がします。現代は、日本画という紐をあまりにも固く結んでしまったがために、解くのに時間をかけなければ、解けない状態になってしまったように思うんです。

制度としての日本画というのは実在すると思うんですけど、実際そういうものとは別に日本画の作品として特定するというのは極めて難しいことだと思いますね。それはぶつかりながらしか感じることはできないと思うんですよ。だからこれは日本画であるのか。これは日本画ではないのかという際どいところでぶつかった瞬間に、ここから内側は日本画なんだなと感じられるようなものでしかあり得ない。真ん中なんてものはあり得ないというのが私の主張です。摩擦を起こすギリギリの境界で軌道を描きながら・・・軌道を描くことができればその内側が日本画ということになるんでしょうけれども、そんなに簡単に言えないわけですよ。

・・・大観でも玉堂でも春草でも、あの時代の方たちは、日本の土壌のリアリティーを肌で感じていたのかもしれませんね。

戦前に活躍されていた日本画家の中に理想郷があったんだと思いますね。明治の後半から戦前ぐらいまでは本当に日本画のいい時期だったと思うんですけれども、それも実は日本の伝統の国粋的な部分とモダニズムがぶつかりあって、せめぎ合っているところで出来上がった花ですから、やはり摩擦の中なんですよ。戦後は物質性の強い岩絵具で絵を描くようになってしまったので、「洋画も日本画も現代美術も境界なんかないんだ」などと歴史を度外視した乱暴なことを言い出して、捉えづらい状況になってしまったということだと思いますね。確かに戦前の作家の作品とか作品のあり方に、ある一つの答えはあると思うんです。けれどその社会的な背景とか政治的な背景みたいなものを踏まえると、中々そこに回帰していくということは単純にはできないと思います。

・・・摩擦を起こすギリギリの境界で軌道を描きながら描くということは・・・今回の作品にも言えることですね。

今回の方が以前の作品よりも普遍化、一般化に近づいたのではないかと思っています。一見すると安心して見える風景になっているので、作品としては危なっかしいのですけど、そこのギリギリのところで普遍性を感じられる部分が持てるのではないかなと思っています。

・・・描かれた対象に意味があるのではなく、画風に意味があるということですね。

元々風景の方に題材とか取材した何かがあるわけではなく。ほとんど1日一点に近い状態で描いているんです。毎日ある情景が感じられる心持ちになる瞬間を繰り返しているわけです。これらの作品はその結果として残ったものなんです。

・・・人の記憶の底に沈んでいる風景ということでしょうか。

今回はプルシャンブルーという顔料と胡粉だけで描いているので、まったく青と白の関係なんです。下地もなく、ただ和紙の上に濃紺から薄い白までのグラデーションだけを最初に作って、偶然にできたにじみの模様に最小限の手助けをしてイメージを立ち上げているのです。空間の奥行きには、甘い言葉で言ってしまえばノスタルジーみたいなものが漂っているんですけれども、明かりが灯っているのは、人の営みを感じさせる為。そこが自分のいるべき場所なんだけれども、自分はそれを見ている分だけ他者的な状態になっている。そういう状態を描いています。かなり以前から眺められるものとしての絵を描こうと思っているんですよ。見るとか見せるとかというよりは、眺めていられられるようなものと言えば良いでしょうか。

・・・プルシャンブルーを使われているのは、海のイメージというか、地球の持っている生命記憶みたいなものがつながっているように思います。

描いているのは、偶然からできた架空の風景なんですけれど、それは潜在的な記憶によってしか作り出せないですよね。どこかで見た海とか林とか山とか、そういうものが頭の中に入っていなかったら、そこから風景は引っぱり出せないわけで、絵を描くということは、そういう意味で自分に潜在している記憶というものと絵具や水の作用とをつき合わせる時間なのかもしれないと思っています。それはあくまで過去に向かっているわけで、誰とも逢うわけではなく閉鎖されたアトリエの中で、静かに何時間かかけて描き続けている。そういう時間というのが何なのか、ということですね。
ある意味で記憶というのは、スナップ写真に近いのかもしれない。描いて見てわかることですが、人間の記憶というのはすごく写真的に残されているんだと思いますね。

・・・確かに、記憶というのはそういうイメージがありますよね、俯瞰して見ているというか。距離がなければ見えないもののような気がするし、一瞬一瞬がフラッシュバック、するように立ち上がる。

写真の場合シャッターを押すのは一瞬ですが、絵を描く場合は「絵を描く。像を作り上げる」という一定の時間があるわけです。1日数時間をかけて1枚のスナップショットを撮り続けていくようなもので、極めて意識的にシャッターを押している状態ですね。ある意味不毛なんだけれども、日々の訥々と過ぎていく時間を捉えながら生きていくしかないのかなとも思います。

・・・無常観を感じる部分はありますね。ところで今回の作品は比較的小さいものが多いですが、小品というくくり方ではなく、大きさにこだわりを感じますね。

作品は描くものやねらいに応じて適正な大きさと材料があると思うんですよね。今までは大作が多かったんですけれども、今回SM~P10号の間の仕事が適当なんだろうなと思っているんです。水の作用がかなりあるので。画面が大きくなったからといって、水の分子が大きくなるわけではないですから(笑)。日常的な作業として、自分がそういう心境を持ちながら風景を引き出せるサイズ。自分の身体の大きさとの関係とか、1枚にかける時間とかいろいろなバランスの中で選びとられてきた大きさが、このサイズになったんです。

・・・これからはどのような展開を考えてらっしゃいますか。

しばらくは続けていかないとまだ納得できないところがあるので、淡々とやっていくと思うんですが、もう少し深めていければいいなと思っています。先ほどお話した日本画が置き忘れてきた仕事を探ることで、刺激を受けながらこの路線で制作を続けていけば、また何か出てくるのかなという感じはしています。

~26日(日)まで。