篠塚聖哉

フタバ画廊 東京都中央区銀座1-5-6 福神ビルB1F
03-3561-2205 11:00-19:00 日曜日は16:30まで

1996 多摩美術大学日本画科卒業/1997個展 (戸村美術・東京)/2001 You’re seeing things 錯覚 (フタバ画廊・東京)/2002 OVERGROWN WITH FLOWERS 水引き草 (フタバ画廊・東京)

「 “蒸発する山” は大気の循環を表しているんです。海や川、人や動植物の表面から蒸発した水蒸気は、蒸発→降水→流出→蒸発…と、水は地表と大気の間をぐるぐる巡り、増えることも減ることもなく大昔から変わることなく循環しています。人もまた循環の一部として存在していると思うんです 」

・・・以前はインスタレーションをされていて、今回から平面を描かれているのですか。

 もともと平面を描きたい思っていたんですけど、今まで平面を描こうとすると、上手に描きたいという気持ちが強く出てしまって、ちょっと嫌みな絵になってたんです。それがインスタレーションですと自分の意図だけが伝わりやすかった・・・。
でも最近は平面を描いても、上手に描こうという意識がうすくなってきたのでスムーズに移行できたような気がします。以前から、平面作品をやりたかったし、自分にはあっていると思ってはいたんです。

・・・画面の上下に余白があるのは、フィルムを見ているような感じがしますね。その意図は?

 意図は2つあります。ひとつは、自分が作品を画面いっぱいに描くと少しアカデミックで、古い感じになるんですよ。ただそれが悪いと思っているわけではなくて・・・同時代性に対して“どういうことをしてものを作るか”という部分が必要だと思っているんです。そのバランスの度合い・・・それは僕は平面と映像のバランスだと思うんです。
紙の耳を残して軽く浮かせて展示して、余白を作ることによって、そのバランスが同時代性に遭いやすい。今の時代に近づくんではないかという意図があるんです。もうひとつは、タイトルを考えるときに本の表紙やレイアウトを見てるような感覚で決めるので、たとえばここにタイトルの“ハバロフスク”の文字を入れると、なかを見てみたい本になるのではないかと思うんです。そういうデザイン的な要素もあるんですよね。

・・・タイトルは “蒸発する山” 、 作品にスケール感を感じますね。

量感はあるんだけれどもつかめないようなボリューム感というのは、インスタレーションをやったときから、主題のひとつだったんです。それに画面上にはリアリティは必要だと思うんです。だから、どういう風に描いても、リアリティが人に伝わりやすい形態・・・そのひとつが煙であったり霧であったりするんですね。オイルパステルで描いているのも、煙状のものやボリューム感を表現しやすいと思っているからです。

・・・なるほど。でも煙や霧のイメージというのは、無常観や死生観を伴うもののような気がするんです。

 その感覚は、年代によっても代わるかもしれませんね。僕の年代ではまだそこまでは感じないんですよ。でも浮遊感や軽さを感じてほしいし、つかみどころのない不安定感のある状態にしたいとも思っています。
“蒸発する山” は大気の循環を表しているんです。

 海や川、人や動植物の表面から蒸発した水蒸気は、蒸発→降水→流出→蒸発…と、水は地表と大気の間をぐるぐる巡り、増えることも減ることもなく大昔から変わることなく循環していますよね。人もまた循環の一部として存在している。
今回の作品は、濡れていくもの、乾いていくこと、その2つの間の行き来する変わることのない大気の循環を暗示しているんです。

 ある時偶然に人類は生まれ、あたかも地球には人しかいないかのような振る舞いをしている。けれどもそれは地球が存在している果てしない時空間の一瞬の瞬きかもしれない。
大気の循環のメタファーに接して、方丈記「無常を爭ひ去るさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は露落ちて花殘れり。殘るといへども朝日に枯れぬ。或は花は萎みて露なほ消えず。消えずといへどもゆふべを待つことなし」の一節を私は思い出してしまいました。 - 5月29日まで。