小滝雅道 展 -Neither a point nor a line-

1961 東京都生まれ
1986 東京芸術大学大学院研修科 修士課程日本画科 修了
1989 東京芸術大学大学院後期博士課程 
    現在 早見芸術学園造形研究所 日本画塾講師
    明星大学造形芸術学部 絵画(日本画講師)

[主な展覧会]
1986 「第一回 有芽の会」~’92 東京/有楽町西武アートフォーラム・「第五回 凰の会」’87,’88、東京/柊美術店/1988 個展スルガ内画廊・レスポアール展/1989 個展 東京藝術大学 陳列館/1990 「第45回 春の院展」東京/日本橋三越本店・個展 東京/ギャラリーなつか’94,’00,’02/1991 「第1回 PLUS 11展」’92 東京/アートギャラリー京橋・ 個展 東京/なびす画廊/1992 個展 東京/ワコール銀座アート.スペース・「飛翔’92」~,’95 東京/玉屋画廊/1993 個展 東京/ギャラリーゆう・個展 鎌倉/早見芸術学園エントランスギャラリー・個展 東京/ギャラリー福山・個展 東京/ギャラリーアリエス’94/1994 「ガラス絵と額装された鏡展」東京/森田画廊・「P・E・C・I・P・E展」大崎/ウエストギャラリー/1995 個展 東京/SK画廊・個展 東京/ウエマツARTSALON・「第6回TAMAうるおい美術展」東京/パルテノン多摩市民ギャラリー・「ミニアチュールとガラス絵展」,’05 東京/森田画廊/1996 個展 東京/玉屋画廊・「DRAWING-その表現と可能性-」東京/玉屋画廊・「フィリップモリスアートアワード1996展」東京/青山スパイラル・原宿クエストホール・「Mac World EXPO/TOKYO’96 レトラセット CG展」千葉/幕張メッセ・「開廊記念展」東京/アートギャラリー閑々居/1997 個展東京/ギャラリーギンザアレイ・ 「今日の日本画-第14回山種美術館賞展」東京/山種美術館・「’97大邸アジア美術展」韓国・個展 鎌倉/ BAHT HOUSE DTUDIO,’00,’03 /1998 個展 東京/ぎゃらりー朋・個展EXHIBITION SPACE東京国際アートフォーラム・ 「International Young Art 1998」イスラエル・「異色のArttistたちの墨表現」東京/ぎゃらりーならや/1999
「The New NIHONGA Tradition」Dillon Gallery ニューヨーク/2002 「形象展」~,’05 東京/香染美術画廊/2004 「光の形式/明るい星座」東京/明星大學展示室/2005 個展 東京/香染美術画廊

・・・タイトルは「Neither a point nor a line 」ですか。

 以前からずっと描いている「点でもない線でもない」という言葉の英訳です。

・・・描こうと思われたきっかけを教えてください。

 大学時代に日本画を学んでいたので、技法や素材などに触れながら表現を追求しいくうちに、辿り着いたというか出会ったモチーフです。

 日本画のルーツを辿っていくと、絵と漢字とのかかわり合い方・・・日本では絵文字である漢字を日常言語として使っていますが、漢字を考えていくと絵を見いだすことができるし、逆に絵の中にも漢字を見いだせることに興味を持ちました。例えば日本の美術であれば、平安期の絵巻には葦手絵といいまして、文字が隠されていたり、ハイブリットした作品があります。 絵と文字、この場合は漢字ですけど、私は日本では、そういう言語を使っているうちに、ものの見方や考え方が、可逆的に平面化したり、装飾性を好む傾向の文化の土壌を作っていったのではないかと、絵画と文字が互いに影響しあいながら特徴を形成していったのではないかと推察しています。

  単に平面性や装飾性の事例をあげることは簡単なことだと思いますが「何故、平面的になったのか」その原因を探していくといろいろな展開があると思うのです。それで自分の中で、仮説を立てて、文字的なものを絵の中に取り込むと「東洋や日本ではどのように見られるのか」それを確かめてみたい。そういった歴史的な関係を踏まえて推測しながらこの10年位作品を描き続けてきました。

・・・漢字というのは、私はアイコンのようなものではないかと思っていました。

 そうだと思います。最近新聞で読んだのですけど、中国寧夏回族自治区で、中国最古の絵文字が発見されました。岩壁に、図案化された太陽や月、狩猟や放牧、踊りや祭祀(さいし)などの壁画が描かれており、そこに漢字の要素が入った、漢字にさらに近づいた岩絵という。絵文字が約1500点見つかったそうです。その発見は漢字の起源とされる甲骨文字を更にさかのぼり、漢字の歴史を塗り替える可能性も出てきたらしいんです。

・・・文字が発生する時は、まずものの形を写して図形化し、絵の段階から次第に簡潔な記号へと変化してゆくと思っていましたが、でもそこに絵の原点があるというのは気がつきませんでした。

 アイコンという明晰な完成品がある以上「絵はどういう役割を担うんだろう」と考えますと、文字の方は強さがあり、政治的ですし重みが違いますので、絵は霞んでしまう。私自身としては、文字に対抗するというよりは、むしろ降参している状態です。ですから歴史もあり完成品としての文字の存在を前提として、絵は何ができるのかを探っていこうと。それをまず自分で見てみたという気持ちが強いのです。

・・・それが小滝さんの絵を描くモチベーションになっているんですね。ただ現代美術では「絵画は身体表現である」と言われているし、李禹煥も絵画を身体が存在できる空間、自分が居合わせる場の問題と関連づけて考えていますよね。絵画のルーツを考えるという小滝さんのご意見とは、かなり意味合いが違ってきているように思うので、私は、小滝さんのこれからの展開にとても興味があります。

 「点でもない線でもない」というのは、点も線もむしろ存在しない。それはあくまでも人間が規定したものであり、最初から無いものとして、もっと原初的なところから立ち上がったものだと思っているのです。そうしますと西洋の文脈とは違う文脈になってしまう。ただ西洋美術を否定してるわけではなくて、如何に世界性を獲得できるかは日々努力はしています。

・・・原初的なものというのは、点とか線という実体が存在するのではなく、意味生成の現場においては、流動的な流れの中に、点も線も泡沫のように表出するものということですね。

 絶えず流動的で、仏教用語では「無常」と言いますけど、この世の中の一切のものは常に生滅流転して、永遠不変のものはない。どんどんズレていって留まらないところ、それは大昔から今も続いていることであり、「今・ここ」でもリアルなものとして感じられると思うんです。

・・・なるほど。ところで以前よりもより空間を意識されていませんか?

 文字的な要素を入れようとすると空間をカチッと固めてしまう。アイコンとして描いたものが、そのように作用するんです。「楷書」的なものを入れると、たちまち動かなくなってしまうので、「かな」的な要素を取り入れています。ただ「かな」的な要素でも、墨で描いただけでも、描かれたものが自ら空間の中に決まろうとか、収まろうとか、ピタっと落ち着いてくるようなところがありまして、そればかりですと画面が窮屈になってしまうので、動きを重視して、絵画的な多層空間を現出させています。文字的な要素を描いただけでも主張してしまうんですよ。文字に近いほどそうなんです。存在感を持ってしまう のです。その駆け引きというのが、難しい。文字になってしまったら、止まってしまう。磁場とか引力のような文字の魔力みたいなものがあるんでしょうね。

・・・文字には一義的な明晰性があるし、絵画は多義的だから揺らぐ部分がある。その両義性は、表層の部分だけを考えても、とても難しいと思います。でも最近、私は絵画を面白く感じています。作品は止まっているんだけれども、内側では流動している。ヴィデオアートは動いているんだけれども、留まって見るのは苦痛な時もあります。絵画には文学に於ける行間を読むようなイメージの広がりを感じるんですよ。

 絵画は対話ができるということですね。絵画はシンプルで、控えめなメディア。そういう絵画言語で何が表現できるか。これからも考えていきたいと思っています。

~23日(日)まで。