GALLERY TSUBAKI presents
コイズミアヤ展 “充満と空虚”
2005.7/4-16
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東京都中央区京橋3-3-10 第1下村ビル1F TEL 03-3281-7808 FAX 03-3281-7848
11:00-18:30(最終日p.m.5:00まで)http://www.gallery-tsubaki.jp/tsubaki.html
| 縮みの文化といわれる日本独自の伝統を引き継ぎ、小さな箱の世界に大きな宇宙を造りだしてきた作家は、ここ数年自然と造形の関わりをテーマに展開。木を素材とする箱形の建築模型的な立体作品、8〜10点展示。 |

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・・・今回のコイズミさんの作品は、一つの建物という構造物を“人の心というか、魂”のメタファーとして展示されているように思うんですけど。 意識しているわけではないですけれども、そういうつもりで作っています。 ・・・96年が初個展でしたよね。私は97年の展覧会(「距離と変容の器」詩と立体のコラボレーション展と第五回NICAFの三人展)のときに初めて拝見しているんですけども、すごく暖かみのある作品だなと思ったんです。それが今もずっと通底されているように感じるんですよ。 温かみですか。でも初期の頃は、私の見ていた世界の見方はもっと殺伐としたものだったんです。意識的にはそう感じて作っていたので無機質な感覚があったように思います。でも作者の心の持ちようはそうでも、作品は手で作るものだから・・・。
4年生になったときに就職をしないと決めたんです。空デではその1年間はひたすら卒業制作に打ち込むんですよ。時間がたっぷりあったので、当時は版画なども作ったりとかしていたんですけど、空デは空デらしい特徴をいかし、自分が好きなものが作れたらいいなと思っていたんです。 そのころはカフカの不条理な世界が好きで、カフカのことを調べていたら、『変身』は生前発表したものだけれども、他の作品は死ぬ間際に親しい友達に『全部焼き捨てくれ、絶対出版するな』といい残していたそうなんです。でも素晴らしい作品なので友達が発表してしまって、本人の意思とすればそれらの本は本当は世に出る本ではなかった。だから「しまいこんであげる箱を作ってあげよう」と思ったのが最初なんですよ。 そしてもう一つの理由は、私が展覧会を見に行ったときに感じることなんですが。これは作品にもよりますけど、一方的に・・・作品が大声で私に向かって語りかけているんだけれども、変な言い方だけど、私を超えていってしまうというか。なかなかきちっと出会えた感じが少なかったんです。それは単純に私の見る力や好き嫌いがあるからと思うんだけれども、音楽や映画であれば簡単に響き会うことができるし、本を読むときでも、本との出会いがあるように、アートも確実に個人的な出会いができるもの。そういう出会いの形ができないかなと思って・・・。 開けるという具体的な行動と、限定された時間との出会いを演出したいと思ったのがきっかけなんです。
・・・展覧会場を大きな箱と見るのであれば、その中でまた小さな箱との出会いがあるというのも面白いですね。 ただスケール感の問題が一つあって、人間の大きさは確実に決まっているから、物の大きさや価値は、拡大縮小しきれないじゃないですか。私が極端に大きな箱を作らないのは、威圧するほど大きくなくて、視界にうまく入る、視界に入りきれる大きさがベストだと思うからです。 ・・・初期からの流れを拝見すると箱の形が変容してますよね。たとえば箱が開いていたり、透明であったり、壁に掛けるものがあったり・・・。 外側の形と中のものは分かちきれないんだけれども・・・。 今回の作品は半歩外側の形が先に浮かんだんです。とにかく四方から開口があるものが作りたくて・・・完全な立方体ではないけれども、上下左右があるもの。 ・・・宇宙ですか。
・・・今年の春に拝見した「山と隧道」 アクリルケースに入っていた有機的な山みたいな形(http://www.gallery-tsubaki.jp/2003/030324/02.jpg)が変化したのかもしれない。私が今まで作り続けているのは、自分のひたすら内なる世界なんです。奥多摩のトンネルを見たときに、その内なる世界と共通するシンパシーを感じたんですよ。それで外の世界も内なる世界と同じように扱えるかもしれないと思って、等高線や地図を参考にして山の形を作って箱に入れてみたんです。何処まで行けるかわからないと思って、外に行ってみたんですが・・・。ただあの作品はまだ納得ができていなくて、未消化の部分が残っているかもしれません。 ・・・未消化の部分というのは? 内なる世界と外なる世界は同じものだとずっと思っているんだけれども、外なる世界をどういうふうに見るかという見方。本当の山を箱の中に入れてしまうという直接的な行為が可能なのかと思ったんです。結果は見えているかもしれないけれど、自分でやってみたかったというか・・・。
たとえば内側に真理があって、それが内側から出てくるという言い方をされる方がいるんですけど、それにも違和感があるんです。内なる世界と等価値の外なる世界の話をしたときに、外なる世界をどういう視点で見るかということでずいぶん違うじゃないかと思うんです。 ・・・私は真理が中に隠れているとは思っているわけではなくて、外にも中にも真理は無いと思っています。たとえば死んでしまえば身体という物質が分解して自分の外の世界と一緒になるわけだし、人は自己という認識を確認したい為に真理を求めたがるけれども、そうではなくて、生も死も表裏一体・・・すべてあるがままを受け入れることで、内なる世界と外なる世界が同じものだと感じることができるのではないか、曼荼羅というのはそういうものではないか、それが私なりの解釈なんです。 そうかもしれませんね。私は仏教の世界観にリアリティーを感じるんですよ。それは人間の意識的な宗教というよりは、もっと遠い視点・・・それが宇宙だと思うから・・・。 〜16日まで。 (c) KOIZUMI AYA |