石橋貴男 「彫刻人形展 伍」  - battle against bad infinity -」

2007年11月12日(月)-18日(日)11:00-19:00

PUNCTUM Photo+Graphix Tokyo 東京都中央区京橋1-6-6ハラダビル2F TEL 03-5250-5001

『彫刻人形展 伍 -battle against bad infi nity-』のコンセプト - 作家の声を代弁して-
◎ FRP → battle against bad infi nity

安価で耐久性が高く、かつ軽量な繊維強化プラスチック(Fiber Reinforced Plastics)は、軍用機やミサイルなどの機体部位として積極的に活用されている。こうした兵器はまた石油との関りが深い。機体部位に使われるFRP は石油精製品であり、その動力源も石油である。また往々にしてその燃費効率は低く、大量の石油が消費される。このように石油と石油精製品は軍需産業の中核をなすため、石油会社は顧客である国家と政治面でも強い関わりを持っている。この点を踏まえると、世界最高の純利益をあげ、世界最高の株式時価総額を誇るテキサスの石油会社が、第43 代アメリカ大統領に大きな影響力を持っていることは想像に難くない。さて、21 世紀に入るとこの大統領は戦争をイラクにしかけた。その理由は1950 年代に飽和状態を迎えたアメリカ経済のさらなる成長を牽引する力が軍需産業にしかなく、代わりを担う産業がその時点で他になかったからだ。

 

戦争の結果なにが起きたか。多くの人が死に、多くの自然が破壊された。そして世界の政治と経済が混乱し、ここに端を発する石油価格の高騰が、世界第2位の石油輸入国である日本において社会問題の助長に大きく加担する。通常このような石油価格高騰=資源高の渦中ではインフレが発生するが、実際には物価はそれほど上昇していない。その理由は規制と障壁の緩和された日本の経済における企業間の秩序なき過当競争にある。こうした競争下では高騰した資源コストを価格に転嫁することさえ難しい。結果として企業の利益は減少することになる。
そのしわ寄せはリストラと過重労働としてやってくる。そして人々は疲れ、不安になり、孤独になり、浮気や犯罪が繰り返され、またこの9 年間、自殺者は3万人を下らない。

 裏切りや自殺、戦争が繰り返されることは、経済成長への無際限な意志から生まれる悪しき現象の繰り返し=悪無限に他ならない。悪無限は人間と自然との関わり=生産に対立するものであるが、この意味で同時に消費されたモノの再生産=リサイクルにも対立する。
 こうした対立はFRP がリサイクルの対象にならないことと符合するはずだ。
 破壊・消費された自然=モノが人と関わることで再生されることが悪しき現在を変容し、そして新たな未来へ我々を導くならば、我々は悪無限に対して戦いを挑なくてはならない。

◎作品に込められた神性と人間性の対話

「彫刻人形」という名前は、作品に神性と人間性の両者を宿らせたことを意味している。彫刻のなかでも人体をモチーフにしたものは、一般に個人の性格というよりは超越的な精神を内包するものとされ、したがってそれは神のようなモノである。他方で人形は愛玩すること、共に遊んだりすることを目的として作られたものであり、人間的性格を多分に帯びている。つまりそれは人間のイメージに近づけたモノだ。こうした両者の共存が意味するところは、神性と人間性の対話にほかならない。しかし対話というものはそれが行われる場所があって初めて実現する。そこで場所を用意するわけだが、私はここで作品の素材にその役割を与えることにした。つまり従来の繊維強化プラスチック(FRP)と今回新たに使用した竹が、対話の場を演じることになる。

当初、私はFRP を歴史的に曖昧な性格を持つ生産財として捉えていた。これを彫刻という伝統的な造形形式の作品素材として使うことで、「いまを生きる曖昧な私」という定着した自己認識を「歴史的時間の中にいる私」という自己認識に結びつけることができると考えていた。つまり自分が歴史的時間の極点であるいまを生きることの実感を得るための装置としてFRP を使っていた。
だが現実に起きている社会的出来事に視線をむけると、FRP が現代社会の負の側面を象徴していることがわかる。作品の素材が対話の場となる端緒は、ここにこそある。
今回の作品ではリサイクル可能な有機的自然、つまり生命体としての竹を、リサイクルができない無機的な自然であるFRP に突き刺すわけだが、それは現代社会の負の側面に対する闘争状態を私なりに表現した結果といえるだろう。
こうして現代社会という場が作り出され、その負の側面に対する闘争が行われるなか、神性と人間性の対話が行われる世界が現われる。この世界が作品と同一化することで、展示のテーマを鑑賞者へ明確に伝えるための準備が整う。

◎展示を通して、現代社会における心の在り方を問う

前回の展示では個々の作品が作りだす関係性、あるいは空気感に焦点をあてることで、作品に対して距離を置き、それによって内省と葛藤が作品に反映されること禁止した。今回はその成果を踏まえて、展示に対する適切な距離を明らかにしたい。では適切な距離とはなにか。それは各作品が作り出す世界の形式を、より直接的に把握する展示への客観的な態度のことである。「彫刻人形」には神的な側面と人間的側面が存在する。正確にいえば両者の対話がある。またそこには場=自然が存在し、それ自身が総体として世界でもある。人間的側面は苦悩を抱えているが、その苦悩は自然を媒介として神性と対話を行い、救済に与ることで浄化され、結果として柔軟で多様な心性に変化する。この心性が心の全体である。展示における観想のあと深い沈黙のあいだに現れるのは、各作品のこの心に他ならない。
それぞれの心が世界の形式の要因であるなら、その形式をより直接的に把握することは、それら心の把握をより容易にするに違いない。展示に対する適切な距離を明らかにすることは、その意味で各作品に込められた心をとらえる方法を知ることだ。
ところでここで、対話を媒介する自然が現代社会の負の側面も意味することがわかる。であるならこうした自然と関わり現れる心は、一体どのような様相を帯びるのだろうか?
こうした展示への接近から私がテーマとするのは、現代社会における心の在り方である。

◎色彩について

こうして妄想と制作に悪戦苦闘していたある日、私の携帯電話にひとつのメッセージが残されていた。電池が切れてそのままにしていたあいだ、誰かが私に電話をしたのだろう。メッセージの主人は聞きおぼえのない少女の声だった。耳を携帯電話にあてたとたん、そのあどけない笑い声がきこえた。私は少女の無邪気な笑顔と唇を思いうかべた。
笑いがおさまると、少女はああ、ああ、と呻き声をあげて、たどたどしくこういった。
〈ああ、ああ……あそこには〉
〈ただ、奔放さ、秩序と美しさと贅沢さ、静けさと快楽のほかになにひとつない〉
〈……〉
〈あそこには〉
少女の声が高くなった。
〈ただ、奔放さ、秩序と美しさと贅沢さ、静けさと快楽のほかになにひとつない〉
深く長い沈黙がつづき、録音は終わった。
携帯電話をたたんで机に置くと、しばらくは言葉もなかった。
そしてなんの前触れもなく、私は色彩について考える。
これまでの作品で闇を意味した黒は、今回の作品において石油を意味する黒でもあり、また同じように煉獄を意味した赤は、戦争の傷痕を意味する赤にもなるだろう。
過去と現在を引きうけて、その先にある未来に向かって制作を続けるということは、現在の変容に資する戦闘への参加といえるのではないか。このように考えた上で私は、赤や黒という色彩が、現代社会の負の側面を露出させる役割を担うことを強く求める。
だが傷痕の赤が少女の唇、コールタールの黒が〈あそこ〉に変わることはないのか?

 私は卒然と、もし少女の〈あそこ〉が剥き出しになっているのを見ることができるなら、そのときは戦闘をやめる、と思った。

文責 柳マチ子

(c) 石橋貴男